薩摩の伝説をまとめた資料、かごしま昔物語『倭文麻環(しずのおだまき)』に
豊久(仮名:又七郎)は世に並ぶもののいない美少年であるばかりか、知勇ともに抜きん出て優れている。
と記された公式イケメン・島津豊久。
作中では「薩人マシーン」だとか「妖怪クビオイテケ」だとか揶揄される、鹿児島県産バーサーカー・島津豊久が異世界転移するまでの武勇伝や、薩摩武士の生態についてを、わかり易く解説。
※逸話や伝説など歴史的根拠の薄いものもあり
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更新日:2024-12-17
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薩摩の伝説をまとめた資料、かごしま昔物語『倭文麻環(しずのおだまき)』に
豊久(仮名:又七郎)は世に並ぶもののいない美少年であるばかりか、知勇ともに抜きん出て優れている。
と記された公式イケメン・島津豊久。
作中では「薩人マシーン」だとか「妖怪クビオイテケ」だとか揶揄される、鹿児島県産バーサーカー・島津豊久が異世界転移するまでの武勇伝や、薩摩武士の生態についてを、わかり易く解説。
※逸話や伝説など歴史的根拠の薄いものもあり
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薩摩国(鹿児島)が生んだ薩人マシーン。島津家久の息子。
叔父である島津義弘とともに関ヶ原を駆け抜けた妖怪クビオイテケ。
異世界転移後はエルフの里近くに落とされ、良心的なエルフの子供2人によって、近所の廃城を根城にしていた日本からの転移者「織田信長」と「那須与一」のもとへ運び込まれる。
その後、なにかと総大将にさせようと織田信長が画策するものの、基本的に猪突猛進一撃必殺お礼参りは翌日スピーディにを信条とする薩摩武士のため、戦場に飛び込み瀕死になることが多い。
漫画の中では菅野直とともに脳筋キャラとして扱われることも多いが、若いうちに父を亡くし家督を継いで豊臣秀吉にこき使われ、色々内政や金策に苦労していた苦労人。ただのバカでは殿は務まらない。
なお、本人たちは自分たちのことを「薩摩隼人」と美称する。
「捨てがまり」またの名を「島津の退き口(のきぐち)」…それは、作戦に組み込まれれば死亡率1000%の、大将を生き延びさせることにのみ特化した島津の玉砕戦法。
この戦法は「関ヶ原の戦い」にて島津義弘が実行し、成功させたイカレポンチ戦法。
「関ヶ原の戦い」にて、味方により敵(徳川)のど真ん中に置き去りにされてしまった島津軍。
彼らは島津義弘を逃がすために、敵陣ど真ん中を駆け抜け、たくさんの犠牲を出しながらも島津義弘を逃がすことに成功している。
ステップ1:敵の本陣にガチで突っ込む |
島津ならこの状況でも大将首を狙いかねないという凄みがあり、徳川家康は無視できなかった。 |
ステップ2:敵の足止め |
少数を敵本陣の足止めのため置き去りにし、島津義弘擁するチームは徳川本陣を素通りする。 |
ステップ3:追いかけてきた敵の足止め |
最後に、後ろから追いかけてくる徳川軍を足止めするため、甥・島津豊久率いるチームが逆方向に別れ、全力で戦う。 |
島津軍は「徳川の首を取る」と見せかけるため、徳川の本陣へと突っ込んでいき、蜥蜴の尻尾切りのように、足止めのための人員少数を置き去りにしながら走り抜けた。
「自分の命を使ってでも大将を生かす!」という忠誠と覚悟がなければ、土壇場で足止め係が敵前逃亡することだってあったでしょう。足止め係が機能しなければ、この作戦は失敗です。
しかし、そんな不測の事態が起こることなく成功させてしまったところが、島津軍の恐ろしいところ。
薩摩武士に伝わる「示現流」は、猿のような気合の入った叫び声(猿叫)とともに、最初の一撃にすべてを込めて放つ、当てたら敵が終わり、外したら自分が終わる、(本人にとっても敵にとっても)二の打ちいらずな脳筋剣術。
平田弘史『薩摩義士伝』より
薩摩に追い回された薩摩武士ソムリエ新選組のマニュアルには「薩摩の初太刀は受けるな躱せ。」と言われるほど、その一撃は強力で、本当か嘘か、受け止めた刀諸共頭蓋骨を叩き割ったという逸話や兜ごとたたっ斬ったという逸話(豊久パパの逸話)も残っている。
「示現流」がここまで最強と言われる所以は、その速さにあります。
打ち込む速度(速さは重さ)。判断力(精神力とも)。
そして、生産力。
「示現流」は「蜻蛉」という構えから振り下ろす、上段斬り下ろしに特化した剣術で、小難しい技術や型は一切なく、ただ「上段からたたっ斬る」ことのみに特化しています。
そうすると何が良いか。
単純なパワータイプの強い武士を短期間で量産できるのです。
あとはそこに「薩摩武士」たる精神が組み込まれれば、もう立派な薩人マシーンの完成。
その薩摩武士たる精神は、わずか6歳から家庭での教育で入り込みのように教えられてきます。
当時教育は各藩にゆだねられており、薩摩藩では“郷中”という「子どもグループ」を作って年功序列や絶対服従を叩き込む教育システムが構築されていた。
6歳から10歳頃までを小稚児(こちご)、
11歳から15歳頃までを長稚児(おせちご)、
15歳から25歳頃(妻帯前)までを二才(にせ)
と呼び、二才(にせ)は長稚児(おせちご)の教育を担当し、長稚児(おせちご)は小稚児(こちご)の教育を担当するという、
子どもたちの中で上下関係と忠誠や仲間意識を日常的に叩き込むシステムが出来上がっていた。
教育内容例 |
・遊戯時間は個人行動禁止、グループの人間と遊ぶこと ・遊戯の後、稚児らは二才から武道の鍛錬2時間 ・小稚児は18時以降の外出禁止 ・長稚児は18時以降、20時まで二才のもとで座学 |
こうした同年代同士のグループによる交流を徹底したことによって、
薩摩武士は「(いざとなったら命を捨てるほどの)帰属意識」と「(いざとなったら命を捨てるほどの)連帯感」を学ばせたという。
バーサーカー薩摩隼人をバーサーカー足らしめるエピソード「薩摩隼人、すぐ切腹する」
このネタの背景は、深刻な財政難にあったそう。
借金・財政難 ↓ お家騒動 ↓ 切腹という処罰が横行 ↓ 以下ループ |
このデスゲームのような過酷なお家事情が、薩人マシーンの精神性や教育システムに繋がったのかもしれない…。
ちなみに、島津豊久も「朝鮮出兵」や「島津最大のお家騒動」などで財政を圧迫され、かなり借金に悩まされていたという。
これは、まだ島津陣営が豊臣陣営と戦ってる時の話。
前時代の有力大名・今川義元を討ち取った織田信長は、天下統一を見据え、上洛を目指し美濃・伊勢を攻略していく。
ここに天下統一へ向けた戦いが始まった―――
上洛 |
キャリアアップを目指して当時の都・京都を目指すこと。(上京) 京都の貴族と結婚することで、箔付けして市場価値を高める。 |
一方その頃島津家…
「肥前の熊」の異名をもつ龍造寺隆信が島原半島に侵攻を開始し、龍造寺陣営だった有馬晴信が寝返り、薩摩の島津に救援要請を送ったことが事の始まり。
島津・有馬の軍勢は両陣営合わせても5,000未満なのに対し
侵略者・龍造寺陣営の戦力は約50,000。
元々は豊久(仮名:又七郎)もこの戦に参加する予定で集められたが、家久(父)からこんな危険な戰場を初陣にすることはないと、当時15歳だった豊久は家久に「血の気盛んな奴は早死する。あと仲間を危険にさらす。邪魔だ。」と強めに参加を止められた。
島津4兄弟の息子勢の中でも側室系譜の子どもだった豊久は、従兄弟へのライバル心もあり、ほかの従兄弟より早く初陣を迎えられることに優越感を持っていたのに、まさか父から初陣の話を反故にされるとは思わず…豊久は盛大に拗ねた。
結局、母親の口添えがあり豊久は希望通り、初陣の権利を勝ち取ったのだが…
戦直前でみんなが武者震いする中、豊久だけが「親父が急に心変わりして帰れなんて言わねぇかな…」と、別の不安にかられていたとか、なんとか。(真実は定かではない)
●戦力差を覆す勝利
①沼沢からやってきた敵中央部隊を塁壁から鉄砲で迎撃 |
②山岳を迂回して敵を横から叩く |
③浜手に乗り上げた敵を叩く |
戦力差を覆すため、家久が戦場に選んだのは、
海に面した湿地帯「沖田畷」。
機動力の落ちる沼沢①を安全圏から銃で叩き、
奇襲しやすい山岳②を使い横から叩き、
行動が制限される浜手③に上がったところを上から叩く。
地の利を利用し、島津は圧倒的戦力差を覆し敵大将・龍造寺隆信を討ち取っての勝利となる。
『本藩人物誌』によると、豊久もしっかり敵将1人の首を取っていたらしい。
「沖田綴の戦い」で10倍の戦力差を覆して勝利した島津陣営は、それから順調に九州を統一しつつあった。
豊臣秀吉はそんな島津の快進撃を止めるべく「九州征伐」を開始。
豊臣秀吉は最古参幹部・仙石秀久を九州に派遣した。
「沖田綴の戦い」で10倍の戦力差を覆して勝利した島津陣営は、それから順調に九州を統一しつつあった。
豊臣秀吉はそんな島津の快進撃を止めるべく「九州征伐」を開始。
豊臣秀吉は最古参幹部・仙石秀久を九州に派遣した。
しかし、仙石秀久は島津陣営のお家芸「釣り野伏せ」を知らなかったため、島津陣営の偽装撤退を見抜けず「豊臣の援軍を待て」という長宗我部元親の言葉も聞かず
「いやいや、こんな好機無いんだから僕ら(先遣隊)だけでやっちゃいましょうよ!」
と、まんまと島津の戦略にずっぽり嵌り、豊臣陣営は大敗した。
「釣り野伏せ」というのは、中央誘引によって敵を包囲し、戦況を有利にするテッパン戦術。
偽装撤退に敵が「今が攻め時!」と深追いしたら、左右に潜んでいた伏兵が現れ、三包囲から囲んで袋叩きにするという戦法で、島津はこの戦法を得意とした。
初陣「沖田綴の戦い」…敵将1 |
元服前に首級を上げるのは戦国時代でも稀有。 |
「戸次川の戦い」…大名首3 |
島津家久&島津豊久は、「戸次川の戦い」にて長宗我部信親と十河存保など将兵(大名)首を3名仕留めている。 |
島津陣営は「戸次川の戦い」で圧倒的勝利を収めるも、そのあとやって来た豊臣軍約180,000もの大軍勢に敗れ、島津は豊臣陣営に下ることとなる。
その後、秀吉は天下統一を果たし、次は海の向こうへの侵略を考え始める。
これは、島津家が豊臣から朝鮮出兵を命じられたときの話―――
豊久(当時諱:忠豊)の父・家久は豊臣と単独講和を結び、家久は豊臣から日向佐土原の地を貰い、島津本宗家から豊臣大名として独立した。
しかし、独立してまもなく家久は急死(島津本宗家による毒殺説あり)することとなり、その家督はまだ年若い豊久に受け継がれることとなった。
「父は恭順を示した。豊臣側に殺す必要は無い…。ともすれば島津本宗家?豊臣も島津も信用できん…でも叔父殿(義弘)を疑いたくなか…。」
色々思うことはありつつ、豊久は豊臣陣営として東国征伐に参加し戦果を上げる。
しかし豊臣秀吉は島津に恩賞を与えることなく「今度は朝鮮よろしこ」と、豊久と叔父の義弘に朝鮮侵略を命じた。
全国統一し、新たにルールを設けた豊臣秀吉だったが、島津本宗家はそのルールに一向に従わず脱法行為を行っていたため、あまりいい印象はなかったと思われる。 しかし、自分に従順で、いっぱい戦果も上げ、会えばヨイショもしてくれる豊久については、そこそこかわいがっていた模様。 |
豊久は朝鮮上陸後、朝鮮東部の「春川城(チュンチョンじょう)」に攻め入ると、叔父・義弘の到着を待たず一夜にして落とす。
その後、約60,000人の軍勢に攻められるも、豊久の軍勢のみ(わずか500人の兵力)で籠城戦を制し、敵を撃退した。
秀吉、豊久をこき使う |
豊久が朝鮮にて侵略のための地盤固めに急いでいるなか、名護屋にいる秀吉から雑用の命令が届く。 「虎は滋養に良いらしいから狩ってこい。 (セックスしたいからよろしこ)」 豊久は「ジジイのセックスのためになんッで俺らが命張る必要がある!」と愚痴をこぼしたとか。 この雑用のために、朝鮮出兵中の兵は無意味に命を散らした。 コレだけ聞くと秀吉クソ野郎感が強いが、秀吉は世継ぎに恵まれなかったので、子どもガチャに挑戦することは、家の存続のためにも重大な課題だったと…いちおう弁明しておく。 |
上司から面倒な雑用を引き受けながらも、豊久の快進撃は続き、「晋州城攻防戦(チンジュじょうこうぼうせん)」でも真っ先に駆け出し、場内に一番乗りし、晋州城を落とすのに貢献。
これをきっかけに、豊久の名前は多くの将軍たちの間に広まった。
そんな感じで序盤はトントン拍子に朝鮮半島を制圧していく豊久たち。
しかし明の国境近くまで行くと、明が朝鮮への加勢に約10万以上の兵を派遣してきたため、それ以上進軍することができず、秀吉は講和に持っていく方向に切り替えた。
まぁ、結局講和の件は破局し、豊久は再び朝鮮に出向させられることとなる。
再び朝鮮侵略に駆り出された豊久は、毛利壱岐守率いる日本水軍の一手として「漆川梁海戦」に参戦した。
日本水軍と朝鮮水軍が睨み合う緊迫した中、豊久は他を出し抜いて我先にと敵船へと向かう。
旗頭の毛利壱岐守が静止するも、無視して船を進める豊久。
一見命令無視の勝手な行動(間違いではない)だが、豊久はなにも無計画に船を飛び出したのではなく、
「一対一に持ち込めば、海の上だろうが島津が勝つ」
と、白兵戦にこそ自信があり、海戦に慣れていない島津軍の勝機はそこにしかないと、理性的に考えたゆえの蛮行だった。
このときの豊久の戦いぶりは『朝鮮記』『本藩人物誌』などに
「豊久跳んで敵船に移り、敵を斬ること麻の如し」
と記録されるほどだった。
しかも、白兵戦に持ち込んだ結果、敵船の損害も軽微だったため、敵船をそのまま秀吉に献上。あまりの有能っぷりに、秀吉は豊久に感状を送った。
「南原城の戦い」…13人 |
朝鮮上陸後の戦いでも、いっぱい敵の首級を上げた。 |
「彦陽城攻略」…2人 |
単騎で敵の首級2つを獲った。 |
豊久が猛将ぶりを発揮するも、日本軍は劣勢。
約6年続いた朝鮮での戦いは、豊臣秀吉の死を契機に、日本の退却という形で幕を閉じる。
領土を奪えなかったので豊久がこの戦いで手に入れたものは、膨大な借金と家臣の死という、なんとも後味の悪い結果とななった。
豊臣秀吉が死に、ようやく実りのない戦いから自宅に帰還できた豊久に待っていたのは、島津家最大の内乱だった…。
最終的に徳川家康の仲介により終結したが、のちの「関ヶ原の戦い」に響く最悪な出来事となる。
島津の部下・伊集院家は秀吉からの猫可愛がりにより、主の島津家よりもデッカイ家が与えられていた。
そして、本来であれば、部下の部下として扱わなければいけない伊集院忠棟を贔屓して、まるで自分の部下のように扱った。
島津と伊集院で立場が逆転してしまった形になり、
かつ、
忠棟は仕事を怠り朝鮮へ送るはずの食料を滞らせ、朝鮮にいた島津忠恒の兄・久保を餓死に追い込んだ疑いが持たれている。
戦いには出ねぇ
仕事はしねぇ
味方に被害を出しやがる。
そんな人間が持ち上げられることに、島津としては面白くなかったでしょう。
なので殺されました、忠棟。
そうして本格的に「庄内の乱」が始まります。
豊久が大将として山田城を攻めていたときに、自軍の旗(旗印)を敵兵に奪われてしまう。
敵は島津の旗を(なぜか)城内に掲げる。それを外から見た島津兵たちは
「豊久様がもう城内に入っている」
「俺らも豊久様に続け!」
と勘違いし、豊久不在で城を攻め落としてしまったらしい。
そんな逸話が『本藩人物誌』に載っている。
島津家は当初徳川軍に味方しようとするも、拒否されてしまったため
(あまり好きではない)石田軍につくも、結局石田からも存在を軽んじられ続け、
気がつけば島津軍だけ、徳川vs.石田vs.島津という、謎に全方位に喧嘩を売る状態に陥っていた。
内乱が終結したばかりで兵も揃えられなかった島津は、そんな過酷な状況にわずか1600人ほどの軍勢で挑むこととなった。
東軍(徳川派)は西軍(石田派)の織田秀信が守る岐阜城を攻撃。
すぐに援軍を送りたくても、西軍は伊勢(三重)方面、大津(滋賀)、丹後(埼玉)など広域に兵力を展開していたため、東軍を押し返せるだけの戦力を送ることができなかった。
そんなこんなで岐阜城が僅か1日で落ちると、
東軍は島津が守る長良川を押し渡って攻めてきた。
この事態に三成は焦り、島津軍を置き去りに自分の兵を一時退却させようとする。
あまりにもあんまりな扱いに、島津義弘の側近たちが三成へ「流石にそれはない」と、逃げようとする三成を静止するも、それを無視して石田三成は兵を退却させたらしい。これはひどい。
命からがら、なんとか帰ってきた豊久だったが…。
決戦の前夜に行われた軍議の席。
島津義弘の代理で訪れた豊久は東軍(徳川派)への夜襲を提案するも、石田三成に「そんなの田舎者のすること」と却下される。
(なお、このやり取りの記録は現在、歴史としての信憑性は薄いとされている)
先述のようなこともあるわ、
提案はバカにされ却下されるわ、
軽んじられ続けた島津軍は石田三成の指揮のもとで戦う気が失せ、翌日、島津軍は作戦開始時間になっても作戦を無視して自陣で静観していた。
もともと人望がカスだった石田三成は、結局足並みも揃わないし、裏切り寝返る者も現れ、開戦後わずか6時間で敗走することとなる。
西軍(石田)が敗れて、そこに協力していた(してた…?)島津軍も無事なわけもなく。
旗色がよろしく無いと、とっとと逃げ帰った石田三成。
島津軍は1600人しか兵を連れていなかったにもかかわらず、数万の敵兵のなかに置き去りにされてしまう。
徳川に拒否られ、
石田に軽んじられ、
もういっそ玉砕覚悟で本陣に突っ込んで徳川の野郎の首でも狙おうかとまで考えた島津義弘に待ったをかけたのが、甥の島津豊久。
「死ぬための玉砕ではなく、生き残るための玉砕にしましょう。」
そうして、島津義弘を生き残らせるための蜥蜴の尻尾切り作戦「島津の退き口」が決行された。(ドリフターズ第一話)
あとは皆さんご存知、異世界転移。
ちなみに、第一話で豊久が槍に刺され、打ち上げられながらも戦っていた姿は、実際に伝説として残っている、ガチのマジ(?)の姿。伝説なので、本当にあったかは謎。
DMM TVサービス概要 |
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薩摩人、みーんなバーサーカー!
火薬とファンタジーと筋肉が好き。趣味はボディメイク。ポケットに無限大な夢を詰め込んで冒険に出かけたい人生だった。アウトラインギリギリをアクロバティックに疾走したい。